最初のひとしずく
気づくと、ちょっちゅうカホに聞いている。
誰かからの投げかけに困ってそれを方向チェンジしてカホに投げてみたり、
日々迫りくるもろもろの選択肢に単純に迷っている時だったり、
失敗した自分への落ち込みや怒りに対してだったり。
「ねえ、どう思う?カホ。」
カホはたいがい何も言わない。
にこにこしながらおやつを食べ続けている時もあるし、
じっと目を見て何か言いたそうにしている時もあるし、
全く関係のないように感じる言葉を返してくることもある。
でもいつも共通しているのは、
「こうしたらいい。」とか「それはダメ。」ってジャッジしないことだ。
ただそこにいて身をゆだねている。
人を感じつつも、はたらきかけようとせず人をなんとかしてあげようともせず、
力みも思惑もなく、ただそこにいるだけ。
それが案外、私や家族にとって完ぺきな存在のしかた、
だと気づいたのはいつごろからだろう。
不思議。
カホの前ではまるで生まれたての赤ちゃんの前にいるように、
無防備な自分でいられるのだ。
丸裸になった自分でも全然恥ずかしくない。
泣いたり、怒ったり、しおれたり、ふてくされたり・・・。
そうしてカホは、本当に必要な時に、すとん、と
最初のひとしずくを声にする。
その日はかなり滅入っていて、寝室でカホを抱っこし膝に乗せた。
向き合っておでこをくっつけ合ったまま、
「ふう~なんだか疲れちゃったよ、カホ。」
「ナンデ?」
「なんで?って言葉で言わなくても伝わるでしょ、カホなら。」
カホは小さくため息のような息をついて、次に
「シンパイシテル(心配している)」と言った。
―シンパイシテルー
カホからこぼれ落ちたこのひとしずくで、どれほど救われただろう。
(どういったメカニズムでこういったことが起きるのだろうと思う。普段コミュニケーションは一方的だし、その場にふさわしい言葉が出るのも珍しいし、パターンで覚えたのか?いろいろ考えを並べてみても、どうでもいいやと思う。シンパイシテル、とカホが今言った。それで私が救われた。それがすべて。)
その人を思うからこその「ああしたら?」「それはダメよ。」よりも、
「心配している」という最初のひとしずくだけで人は自力で立ち上がれるんだ、と知る。
ひとたび、不安に駆られパニックを起こせば大きな声で泣き叫び、
それはもう手に負えないカホ。
手はかかる、目は離せない、逃げ足速い・・・いつまで続くのか先の見えない現実に、絶望感で打ちのめされる日も多々あるのだけど。
どれほど話を聞いてもらったかな。
どれほど私の中の正直を引き出してもらったかな。
どれほど・・・。
気づけば、小学5年生の姉までが、帰ってきたとたんランドセルをほおり投げてカホをぎゅっと捕まえて、「カホちゃ~ん聞いて、今日学校でさあ・・」と話を聞いてもらっている。
姉さんの気持ちを感じながら、自分は抱っこしてされて嬉しそうににんまりしている。
意見を言わない我が家の大事なご意見番は、今日も誰かの「ねえ、どう思う?」を聞いている。
カホからこぼれる最初のひとしずくがいつでも誰かを救っていることに、彼女は気づいているだろうか。
否、それを意図してできないことが彼女の才能なのだと思う。
だからこそ、それがこぼれ落ちた奇跡に私たちは心が震えるのだろう。
2コメント
2016.02.22 03:37
2016.02.22 03:34