子どもはずっと待っている

育てる者の朝は、いつも慌ただしい。


その日、

学校へ出かける長女を玄関で見送り、

次女を養護学校のスクールバスに乗せ、

三女だけが保育園をずる休み。

時々、

仕事が休める平日はそんなことがある。


もろもろのことが片付いたので、

リビングのちゃぶ台の前に座った。

それまで、ちゃぶ台の周りで

ひとり遊んでいた三女が、

私が座ったのを見て遊んでいた手を止め、

言った。

「かか、座ったの?」

ちょっと驚いた表情で、

もう一度何かを確かめるような口調だった。

「うん、かか、座っているよ。」

私、そんなに立ちっぱなしだったかしら?

と思いつつ返事をすると、

すっと私の膝の上に乗っかったのだ。

黙って、

むっちりとしたお腹をぴたっとくっつけて。


今まで目まぐるしく頭の方に上っていた

エネルギーが

すうっと下の方に降りてきて、

呼吸がゆっくりになる。

何をするでもないけれど

”ただそのままでいたい”

という思いが、

彼女の体から伝わってくるようだった。


『ずっと待っていたんだよ。

こうできるのを。』

そう言われたようで、思わずハッとする。


毎朝、

次女の学校の支度をしているそばから、

思春期に片足踏み込んでいる

長女の気持ちの問題が乗っかってきて、

それらと同時進行で、

朝食の片付けや掃除・洗濯をする。

自分の仕事の準備もある。

頭も体もフル回転。


三女がおとなしくしてくれることだけが、

いつしか助けになっていた。


三女は、手がかからなかった。

手がかからないというのは、

静かで、こちらの言うことをよく聞く、

というようなことではない。

2歳児の時は

それなりに魔の2歳児だったし、

年長さんになった今も

登園時に泣いてぐずることもある。

だけど、

コミュニケーションをとる上で

こちらの言うことが伝わり、

彼女の言いたいことをこちらが理解できる、

といった点では確かに手がかからなかった。


6年生の長女のように

いろいろアンバランスになったり、

2年生の次女のように

言葉によるコミュニケーションが

難しかったり、

という状況の中にいて彼女の存在は

私のちょっとした救いだった。


何しろ、

長女や次女のことで私が大変な時に

彼女は大変な状態にならないで

いてくれたから。

いつも後回しだな…

と感じていたけれど、

そこに甘えて寄りかかっていた自分がいた。


でも…

滑るように過ぎていく日常の中で

5歳の彼女はずっと待っていたんだ。


母さんの膝に座れる時を。

母さんとゆっくりと居られる時を。

母さんに思いきり甘えられる時を。

黙って、ずっと待っていたんだ。


子どもは誰でもきっと待っている。

母さんののんびりしたこころを。

母さんの手や頭が静かに休まる時を。

母さんの愛が自分だけに

惜しみなく注がれているという実感を。


ずっと待っている

ちゃんと満たされるまでは

いつまでも。

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