心をつくった人
先日
親友と親友のお母さんの3人でお茶をする
という素敵な機会があった。
遠路はるばる
この田舎町に来てくれるのだから…
と私は張り切って、
その日のコースを考えた。
海も見せたかった。
山も見せたかった。
おいしいコーヒーも飲ませたかった。
そのすべてを現実のものとしながら、
女三人
話は自然と幼い日の娘と母、
それを取り巻く家族のことになっていった。
親友がまだ小さいうちに
自分の親の介護が始まったお母さんだった。
穏やか、とか ゆったり、とか、
そういう言葉から一番遠い場所で
子育てをしていたことは容易に想像できた。
鍋を囲んで団らんのはずだった時間が、
激しくぶつかり合う時間になっていた…
という話が出た。
母と娘
お互いに、なかったことにしたい
過去だったかもしれない。
同じ出来事についての
母の思いと娘の思いを
同時に聞く機会などめったにない。
話に聞き入っていると、
まるで私は母である自分と娘である自分を
行ったり来たりしているような
不思議な気分だった。
目の前の親友とその母は
噛みしめるように
確かにそれがあって
その時にこういう思いだった、
ということを
ひとつひとつ確かめ合っているような
まなざしだった。
他人には隠せても、
隠し切れずににじみ出てしまう
ニンゲンの弱さや、ずるさや、苦々しさを、
ぶつけ 傷つきながら
そっとそっと許し合ってきた家族の軌跡。
それは、魔法でも何でもない。
日々、
心を砕いて家族を愛そうと、
赦そうとしてきた
道のりに他ならなかった。
できたこと
してあげられたことよりも、
できなかったこと
してやれなかったことのほうが、
ずっとずっと心に強く残り、
悲しみや苦しみになってゆく。
だけれど、
親友とその母を見ていると、
いっとき自分を大きく深くゆがめた
と思われるその痛みは、
ぜんぶ美しいものへと
つながっているような気がした。
親友は写真家だ。
彼女の写真には
悲しみを知っている人にしか
撮れないものが映っている。
憂いを知っている人にしか
写せないものが映っている。
親友が親友たる源は、
やっぱりこの家族、
そしてこの母からきていたんだ、
と心から納得したのだ。
帰り道は雨になった。
駅について車から親友とお母さんと見た。
さよならするときにもう一度。
お母さんの白髪、
しゃべる時に手をあてるあごのしわ、
手の甲についたしみ、
足をかばう杖を見て
ああ、
この人が親友の心をつくったんだ。
そう思った。
かけがえのない親友の心をつくった人。
そんな人物に会えて
ちょっぴり胸が震えた春雨の夕方だった。
夜、親友からメールで
「お母さんに、
今日は手を引いてくれなかったね。
って言われたよ。」
と届いて、
そうやって
無防備な子どもに還ってゆく母の姿を
見ていくことも、
心をつくってもらった娘の
恩返しかもしれない、
と思った。
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